ぎぶそんぶろぐ。

映画の感想とか、日常とか。

大人だったらアスぺ、子どもだったら天才なのか?

先日、とあるツイートが僕のTLに流れてきた。

 

小学生の国語のテスト画像を添付してあり

ツイート内容としては、「【天才降臨】(中略)先生様、これは100点だと思う。」

というもの。

 

んで、テスト(画像)の内容は

 

 

つぎの 日づけの ひらがなを かん字に なおしましょう。

 

さんがつ みっか→(三月四日)

くがつ ようか→(九月九日)

じゅういちがつ ふつか→(十一月三日)

 

 

と、まぁこのような画像でした。

ちなみに全ての答えに×がついていて、0点です。

このテストの回答者は問題文の解釈を間違えてしまい

ひらがなで書かれている日付の翌日を漢字で書いてしまったようです。

 

これを家庭で、どのように指導するのかは自由だが、

僕が問題だと思うのは

このツイートをしている人もそうだが

このツイートにコメントをしている人の中に

「これは100点すね...全く間違えてない...」「先生に×を差し上げます!!」

「問題文が悪い」「出題者の国語力が低い」「柔軟な発想で、天才ですね!」

など、100点であることを主張する内容や先生を非難する内容、テスト自体に文句を言っている人、柔軟な発想と捉える人が多いということ。

それがヤバいと思った。

 

 

職場で部下に指示を出して、今回の件のテストのような回答が返ってきたら、怒るでしょ?

「お前、普通に考えてそうじゃないだろ!」って

友達同士で会話してて、その会話の中で少しずれた回答をしてきたら、変な奴...って思うでしょ?

 

 

「このはし渡るべからず」を「この橋渡るべからず」と解釈せずに「この端渡るべからず」と解釈した一休さんの話とは違って

「つぎの 日づけの ひらがなを かん字に なおしましょう」という文章を

「平仮名で書いてある日付の次の日付を漢字で書きましょう」と解釈するのは無理があるし、国語力に難がある。日付を漢字で書くことと、問題文を正しく読み取ることの2つの力が必要で、この子は片方しか満たしてないんですよ。

 

別にその子供をバカにしようという気はないです。正しい解釈の仕方を指導すればいいだけ。

まぁ、他の生徒が正しい解釈をしていて、その子だけが間違った解釈をしているのであれば、学習の遅れなどを気にして焦るべきかもしれませんが、それは別の話なのでいいとして。

 

もし、何も言わずに100点をあげたとしよう。この生徒は何も思わずに次回も同じような勘違いをしてしまう。そして、次回は点数が与えられなかったとしたら、生徒はどう思うだろうか?混乱してしまうと思う。

仮に100点をあげて、指導もしたとしても、生徒的には100点を取ったという事実は消えないのだ。2回目、3回目も似たような解釈ミスをして回答してしまうかもしれない。

やはり、出題者の意図どおりの回答をしていない以上0点になるしかないと思う。

そもそも、最初に言った通り、

「つぎの 日づけの ひらがなを かん字に なおしましょう」という文章を自然な解釈以外で読むのは間違いなのだから。

 

また、先生というのは勉強面で個性を出すべきではないのだ。

A先生は〇だけど、B先生は×にした。

これじゃあ学校教育が破たんしてしまう。

そういう意味でも、このテストは0点にしなければならない。

 

 

僕が何を言いたいかってのは、僕自身も分からないんですけど

 

元のツイートに

無責任にも「天才ですね!」「100点ですよ!」と言ってはいけない、ということだ。

 

今は小学校低学年だから良いけど、このミスが6年生がしたミスなら、微笑ましい状況にはならないだろう。これが中学生だったら?大人だったら?

問題文中に使われている「つぎの」という言葉は同様のニュアンスで様々な場面で使われる言葉だから、このタイミングでしっかり指導してほしいし、次回からちゃんと答えれるようになっておくべきだと思う。

どうしても、人間社会というのは、空気を読むことや大多数と同じ意見を持っておいた方が良い場面がある。それが正しいか間違っているかはさておきね。

日本という国はそういう文化だから、それに対応できるようにもなってほしい。

...というのは少し大げさだったかな。

 

 

 

子どもは何も悪くない。頭は悪いかもしれないが。

悪いのは、間違いを間違いとして認識していない、大人なのだ。

大人の感動のために、子どもの成長を阻害するべきではない。

 

 

 

上手に言えないし、上手く書けないけど、そんな風に思いました。

おわり。